「A Traveler’s Needs」
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月永理絵
カンヌ映画祭グランプリ作品、
ジャ・ジャンクー、ホン・サンス
『A Traveler’s Needs』(ホン・サンス監督/韓国/2024年)
『3人のアンヌ』(2012)『クレアのカメラ』(2017)に続き、ホン・サンスとイザベル・ユペールが三度目のタッグを組んだ『A Traveler’s Needs』。近作がずっとそうであるように、監督・脚本・撮影・編集・作曲はすべてホン・サンス本人が手がけ、イ・ヘヨン、クォン・ヘヒョ、チョ・ユニら、ここ数年来の常連俳優たちに加え、『水の中で』(2023)に出演した若手俳優のキム・スンユン、ハ・ソングクらが顔を揃える。監督作としては31作目だが、すでに32作目となる『By the Stream』(2024)をこの8月にロカルノで発表している。
映画はほぼ全編にわたって英語劇。ただし使われる英語はどれも初歩的な言葉ばかり。イザベル・ユペールが演じるのは韓国でフランス語の個人レッスンをしているイリスという女性で、彼女は生徒の家を訪ね歩く。1軒目は、ピアノを引くのが好きな若い女性の家。ここで二人は英語を使ってレッスンをし、ピアノを演奏した後、近所を散歩しながら話をする。最後にレッスン料を手渡すと授業は終わり。続いて訪ねた2軒目は、授業を受けたいと申し込んできた女性とその夫が住む家。1軒目の女性とは関係のない人たちであるはずが、なぜかほとんど同じ会話がくりかえされる。唐突に音楽が演奏されるのも同じ。こうしてイリスたちは酒をたらふく飲み交わした後、散歩をし、レッスン料を手渡し授業は終了。やがて彼女は韓国人の青年とルームシェアをしているアパートへ帰り着くが、ここから予想外の展開が始まる。
ところで、フランス語のレッスンなのにもかかわらず、なぜ人々はフランス語ではなく英語で話すのか。これはイリスの授業方針によるものとして説明されるが、大事なのは、人々がみな母語ではない英語を話すこと。そのために、会話場面ではひたすらシンプルな言い回しが繰り返される。「あなたはどうしてそれが好きなのですか?」「私はどうしてそれが好きなのでしょう?」「あなたは何を考えていますか?」「私は何を考えているのでしょう?」繰り返される単純な問いが、私が私であるとはどういうことか、という自己の存在を問う遊戯に発展する。単純さから生まれる、本質的な何か。その過程が、ホン・サンス映画がここ数年、新作をつくるたびに私たちに提示する「映画をつくるとはどういうことか?」という問いへとつながっていく。
本作が『小説家の映画』に続くマッコリ映画であることにも注目したい。ユペール演じるイリスはマッコリが大好きな人として登場するのだが、彼女の歩き方が妙に心に残った。ふわふわと足を浮かせるように歩く奇妙なその姿は、マッコリをたらふく飲んだゆえの千鳥足なのか。まるで妖精のような所在なさによって、これまでユペールが出演してきたホン・サンス映画より、さらに寓話感を増していたように思う。本作はすでに韓国のソウルで今年の4月に公開済みだというが、映画祭の観客席は連日満員。出演者たちも勢揃いし、若い観客たちと一緒に大きな声で笑い声をあげていた。
『Caught by the Tides(風流一代)』(ジャ・ジャンクー監督/中国/2024年)
ジャ・ジャンクーの最新作にして、今回の映画祭でもっとも驚かされた作品。どうやら近年のジャ・ジャンクーの関心は、2001年以降の中国が体験してきた大きな変化を振り返ることにあるようだ。『帰れない二人』(2018)は、2001年から2018年までを生きる恋人たちのドラマだったが、『Caught by the Tides(風流一代)』では、その時間をさらに引き伸ばし、女と男が過ごしてきた20数年間を描く。
2001年、北京オリンピック開催に沸く大同市で、チャオ(演じるのはもちろんチャオ・タオ)はダンサーとして働いているが、恋人のビンはビジネスチャンスを掴むため都会へ出ることを決意する。数年後、チャオは連絡が取れないビンを探し、ダム建設中の長江沿いを訪ね歩く。そして現在、中国で長らく続いていたゼロコロナ政策が終わりを告げ、かつての恋人たちは久々に再会する。
ジャ・ジャンクー監督が採用した手法は実に過激だ。それは、過去の自作で使われた映像を再構成し、チャオとビンというふたりの男女の物語として新たな映画をつくりだすというもの。『帰れない二人』でも、チャオ・タオは『青の稲妻』(2002)や『長江哀歌』(2006)を思わせる姿を披露していたが、本作では、両作で実際にチャオ・タオとリー・チュウビンが演じた場面を使用する。もちろん、過去作からの引用に終始するわけではなく、2001年頃からジャ・ジャンクーが中国各地で撮り溜めていた映像素材が挿入され、さらに新たに撮り下ろした映像が組み合わされる。また、単なる過去作の再利用に陥らないよう、チャオという女性の造形にある工夫が施される。
シリーズものの中で過去作が引用されることは珍しくないが、ジャ・ジャンクーがやろうとしたのはまったく別の試みだ。再編集を施すことで、かつて語った物語を新たな物語として作り変える。これほど大胆な新作がこれまでにあっただろうか。そしてそれが可能になったのは、彼の映画において常にチャオ・タオが主演を務めてきたからこそ。『Caught by the Tides(風流一代)』は、中国の激動の歴史を辿る集大成であると同時に、ジャ・ジャンクーとチャオ・タオというふたりの映画人が共に歩んできた20数年間の軌跡でもある。
『All We Imagine as Light』(パヤル・カパーリヤー監督/フランス・インド・オランダ・ルクセンブルク・イタリア/2024年)
2024年のカンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた本作は、インドのムンバイを舞台に、世代の異なる3人の女性たちが織りなす物語。看護師として働くプラバは、かつて親の勧めで結婚をしたが、夫は結婚後すぐに仕事でドイツへ発ったまま、もう何年も連絡が取れずにいる。別れる勇気はないが、かといって自分が夫をまだ待っているのかどうかすらよくわからない。破綻した結婚生活から目を逸らすように仕事に打ち込むプラバだが、ある日、彼女のもとにドイツから贈り物が届き、彼女は自分の生活を見つめ直すことに。
プラバの物語を軸に、イスラム教徒の恋人とつきあう若い看護師のアヌ、夫を亡くしたあと気ままな独居生活を送る年上の同僚パルヴァティ、それぞれの物語が絡み合う。社会的立場も考え方も異なる3人だが、地方を離れ、都会で働き自立して生きる女性たちである点はみな同じ。だが、家父長制が根深く残る社会で、女性たちが自由を謳歌できるのは束の間にすぎない。選択の時は、すぐそこまで迫っていた。
自分の欲望を封印し生きざるを得なかった者も、自由を望みながら社会に押し潰されようとする者もいる。夢を抱いて都会に出てきた女たちは、最後にどんな道を選ぶのか。山形国際映画祭2023で『何も知らない夜』が大賞を受賞したインド出身のパヤル・カパーリヤー監督は、女たちの欲望と夢が絡み合う様を、美しい光と静寂のなかに描きだす。
『Tango at Dawn』(キム・ヒョウン監督/韓国/2024年)
ヨーロッパの映画祭での受賞作や巨匠の最新作が続々と上映されるなか、日本では見る機会の少ない現代韓国映画を数多く見られるのも、釜山国際映画祭の魅力のひとつだろう。「Korean Cinema Today : Vison」で上映された『Tango at Dawn』は、韓国アカデミー製作によるキム・ヒョウン監督の初長編。主人公は、多額の負債を背負い工場で働き始めた27歳のジウォン。演じるのは、ドラマ『未成年裁判』などへの出演で注目を集めたイ・ヨン。彼女と寮で同室となるのは、同い年のジュヒ。同じ部屋で暮らすうち、ふたりは徐々に打ち解けていくが、ここに同僚の年下女性ハンビョルが絡み、波乱が起こる。
『All We Imagine as Light』と同様、同じ職場で働く3人の女性たちの物語であり、そのうちふたりが同じ家を共有する関係であるのは、偶然とはいえ面白い。ただし、『Tango at Dawn』の人物造形や3人の関係性は、些か紋切り型だ。ある事件がきっかけで心を閉ざし他人と距離を置くジウォンと、聖母のように優しいジュヒ。そして無邪気だが自分本位なハンビョル。彼女たちの人生は、借金問題やマルチ商法、労災事故という様々な事件を経て複雑に絡み合うが、それぞれの性格や関係性は最初から最後まで変わらない。
それでもこの映画に心を動かされたのは、経済的に苦しい生活の中、どうにか生き抜いていこうとする若い女性たちに向けられた、実直なまなざしに惹かれたからだ。工場や寮という限られた空間のなかで、彼女たちがどのように近づき、互いを見つめるのか。キム・ヒョウン監督は奇を衒うことなく、彼女たちの距離の伸縮を映す。
タイトルの「Tango at Dawn(夜明けのタンゴ)」とは、ジュヒに頼まれ、ジウォンがパートナーとして付き合うタンゴの練習のこと。休日の公園で、夜明けの寮の廊下で、ふたりは手を取り合い、タンゴを踊る。どちらかが一歩下がれば、もう一方が一歩を踏み出す。相手と自分との距離を正確に保ち、互いの呼吸を感じながら踊り続けること。それは、この映画が、登場人物と適度に距離をとり、現代の若い女性たちが直面する現実を見つめようとする姿勢と、たしかに重なり合う。