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夏時間

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佐藤 結


自分の中の「子ども」を胸に押し込めて

子どもは、いったい、いつ大人になるのだろう。

それは、大人になった瞬間に「あ、今だ」と気づくようなものではなく、後から振り返って「あのあたりだったかな」と思い当たるようなものなのかもしれない。

「夏時間」では、子どもと大人の境界を生きる主人公オクジュが過ごす夏の日々が静かに綴られていく。

 夏休みのある日、中学生のオクジュは父と小学生の弟ドンジュと共に祖父の家に引っ越してくる。

「体の具合の悪い祖父のため」と父は言うが、どうやら経済的な理由も大きそうだ。
そんな父に愛想をつかしたのか、母は家を出てしまっている。

物静かな祖父との生活が始まってしばらくすると、父の妹である叔母のミジョンが顔を見せる。

彼女も夫との関係がうまくいっておらず、オクジュたちとの共同生活が始まる。

自分自身のことを思い出してみても、中学生というのは「ほとんど大人」と言ってもよい存在だ。

この映画の中のオクジュも、祖父の家に向かう車の中で、自分たちが同居することを「おじいちゃんは知っているのか?」と気遣ったり、叔母と一緒に家を売る算段をしていた父に対して「それはひどいよ」嗜めたりと、時に父よりも“大人びた”言動を見せる。

しかし、意見は言えてもまだまだ大人の決定に従わなければならない“大人未満”の彼女には、フラストレーションばかりがたまっていく。

古い自転車で坂道を一気に疾走するシーンからはそんな彼女の思いが強く伝わる。

一方、弟のドンジュといえば子どもらしさが全開で、奇妙な踊りで家族を笑わせ、母から会おうと連絡がくれば素直に会いに行く。

自分の中の「子ども」を必死で胸に押し込めているオクジュは、そんな彼にも怒りをぶつける。

こんな風にオクジュの気持ちに寄り添って見ていくと、とても息苦しい映画のようにも思えるが、ある時はオクジュに近づき、また、ある時は思い切ってカメラを離し、ゆったりとしたリズムで家族をとらえていくユン・ダンビ監督は、行き場のなくなった家族が集まる祖父の家を、ひとときのオアシスのように映し出す。

見つけてすぐに「ここで撮影しなければと思った」という、庭のある二階屋は風通しがよく、小さな菜園でできる野菜や果物が家族たちの心を和らげる。

引っ越して来た日に食べるコンククス(豆乳麺)にはじまり、叔母が作るチャプチェ、祖父の誕生日のケーキ、姉弟で食べるインスタントラーメン、そして、斎場での食事まで、オクジュの家族たちが何度も食卓を囲むのも印象的だ。韓国語で家族を意味する「식구(シック)」(漢字で書くと『食口』)という言葉は、必ずしも血縁で結ばれていることを条件とせず、同じ家に住み、寝食を共にしている人たちを指すという。

オクジュの家族たちも、お互いに対してどんなに不信感を抱くことがあったとしても、一緒に食事し、何度も気を取り直しながら生きていくのだろう。
この映画の原題は「남매의 여름밤(姉弟の夏の夜)」。韓国語の「남매(ナンメ)」は姉と弟だけでなく、兄と妹という関係を示す言葉でもある。

つまり、このタイトルはオクジュとドンジュ姉弟だけでなく、父と叔母というもう一組のナンメ(兄妹)のことも念頭に置いて付けられたものだろう。

中学生のオクジュの心情に伴走しつつ、父や叔母といった大人たちの、ままならない心情や行動にも細やかな眼差しが注がれている。

妻と別れた兄と、夫との関係に悩む妹が、小さな雑貨屋の店先で炙ったスルメをかじりながらビールを飲む慎ましやかな夜のシーンが胸に迫る。

子どもは子どもなりに、大人は大人なりに悩み、ため息をつきながら、日々を暮らしている。

あるいは、もしかしたら、私たち大人は「大人になった」と自分で勝手に思い込んでいるだけで、子どもの部分を残したまま、ただ、歳を重ねているだけなのかもしれない。



「夏時間」

監督・脚本:ユン・ダンビ
出演:チェ・ジェンウン/ヤン・フンジェ
2019年/105分/韓国
原題:Moving On

配給:パンドラ
©2019 ONU FILM, ALL RIGHTS RESERVED

2月27日(土)より 渋谷ユーロスペースにてロードショー


「夏時間」のユン・ダンビ監督が「没後20年 作家主義 相米慎二〜アジアが見た、その映像世界」オンライントークイベント(2月17日(木))に出演します。


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