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カップルズ

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月永理絵


1990年代の台北に生きる流れものたち

ここがどの都市なのか、いつの時代なのか、実のところよくわからない。軽トラックが走る道路は工事中を示す看板で埋め尽くされているし、若者たちの行きつけの場所として登場するのは、ハードロックカフェやTGIフライデーズといった「アメリカ」的な場所ばかり。かと思えば昔ながらの屋台や小籠包で有名な鼎泰豐の店が映ったりする。言語もさまざまなものが入り混じる。ビジネスチャンスを求め外国からここにやってきた人々はみな英語を話し、ふだんは中国語で会話する若者たちは拙い英語で彼らの会話に加わろうとする。フランスからやってきたマルトの存在によって言語はさらに入り乱れる。そういえばルンルンの実家は外国人たち相手のシェアハウスのような場所で、ここでも英語と中国語とが混ざり合っていた。

映画の中で言われるように、ここはまるでアメリカ西部のようだ。一攫千金を目指すよそ者たちが集まり、歪な形で形成されていく無国籍な都市。今では珍しくない光景ではあるものの、つねに台北という都市を映し続けてきたエドワード・ヤンにとって、急激なスピードで変わりゆく1990年代の台北は、流れものたちが行き交う西部劇の風景として見えていたのかもしれない。

日々変化を続ける街では、そこに住むためのルール、いわば世界の法則もまたつねに更新され続ける。すべては己の利益を追求するエネルギーによって決まっていく。倫理や道徳は傍に追いやられ、何が正しく何が間違いか誰にもわからない。言葉が混じり合い、意味は簡単に変容する。めまぐるしく変わりゆく街に生まれた若者たちは、自分の本当の相手、真のパートナーを探して走り回るが、相手などどこにも見つからない。いくつものカップルが成立しながらもその相手はころころ変わる。

劇中でもっとも戦慄するのは、ひとりの女に対し、4人の男たちがかわるがわる自分の相手をすることを要求する場面だろう。ただし同じことはこの世界のあちこちで起こっている。誘拐の相手は簡単に取り違えられ、詐欺のターゲットはより効果の高い相手へと交代する。軽トラが動かなければ別の車を使えばいい。代わりはいくらでもいる、それがこの世界の法則で、だからひとりの女を罠にはめた男は、まったく同じ手口で3人の女たちによって共有されることになる。加害者と被害者の立場はあっというまに入れ替わる。

信じられるものなど何もないこの世界において、たったひとりの相手を求めようとするのが、英語と中国語の両方を操るルンルンであり、フランス語と英語を話すマルトであること。その意味を考える。恋人を追ってこの街にやってきたマルトと、ハードロックカフェに刻まれた星のプレートの上で彼女を見つけたルンルン。ふたりはそれぞれに母語とは別の言語でコミュニケーションをとりながら、たったひとつの何か、虚しく空回る言葉の向こうにある何かにたどり着こうともがきつづける。本来、言葉を正確に訳すことが職務である通訳という立場にありながら、ルンルンは言葉をあえて誤訳し、マルトとレッドフィッシュとの間に会話が成立することを阻もうとする。彼が実践しようとするのは、仲間がつくったルールを逸脱し、自分だけの新たなルール、新しい世界をつくろうとすることだ。マルトにその仲間になってほしいと願いながら、彼は誤訳を続け、間違った言葉を届けようとする。

映画はどこまでも悲痛で、恐ろしい光景を映しつづける。誰もが絶望し、ルンルンですらついにこの世界に見切りをつけようとしたそのとき、彼はようやく気づく。自分がしていた「誤訳」という行為を、マルトがたしかに受け入れてくれたことに。そうして、最高にロマンチックなラストシーンがやってくる。そこではもう、言葉は必要ない。


「カップルズ」
監督:エドワード・ヤン
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン/クー・ユールン/チャン・チェン/タン・ツォンシェン/ワン・チーザン
1996年/120分/台湾
原題・英題:麻將 Mahjong
配給:ビターズ・エンド

2025年4月18日(金)よりよりTOHOシネマズ シャンテ、シネマート新宿ほかロードショー


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