text
夏目深雪
ホン・サンスが違うことを描き始めた
まずキム・ミニの髪が短いのに驚く。キム・ミニはすごい美人というよりも、長く艶やかな髪を結ったときの美しさや、額やうなじにかかる後れ毛の色気、薄い胸板と細い腰、長い脚などスタイルのよさが魅力の女優だ。それらが何とも言えない女らしさを醸し出していて、男を狂わせる女の役柄に説得力を与えていた。
ショート・ソバージュのキム・ミニは髪に宿った男を惑わす魔力を封じ込められているようだ。彼女が演じるガミと男性との関係は「仄めかし」以外は存在しない。この映画で主に描かれるのは3人の先輩や昔の女友達との、男とのままならぬ関係を基盤に醸し出されるシスターフッドである。
ホン・サンスの描くテーマは毎回似通っていた。知識人(多くは映画監督)の男が女に恋をする。多くが不倫関係である。彼らの道ならぬ欲情が映画を動かす燃料であり、そこにたとえパラレルワールドや反復の中の差異があろうと、ホン・サンスは常に波乱万丈な男女関係を描いてきた。
変化の予感を抱かせたのは「草の葉」(18)と「川沿いのホテル」(18)だった。初めての群像劇とでも呼べる前者と、男女は淡い接点しか持たず(まさかの)「老い」がテーマ? と思わせる後者。
「逃げた女」の3番目のエピソードでは昔の女友達と妖しい雰囲気にもなり、「お嬢さん」(16)でキム・ミニをこのうえなくエロ美しく使い倒されたパク・チャヌクへの(今さらの)意趣返しかと思いきや、その方向にはいかない。この映画の素晴らしさはキム・ミニの首もとで切り揃えられた髪のように、肝心なことを描かないところにある。何を描かないか。ガミの過去を、どうして5年間、1日も離れなかった夫のもとを去り、先輩たちの家を点々としているのか。
この映画では男女関係は後景になっている。にもかかわらず、女たちの悩みやコイバナを聞く、短い髪のキム・ミニはまた違う種類の艶めかしさをまとっている。何を考えでいるか分からない、彼女の一挙一動に目を離せない、ミニマムなホン・サンスマジックは変わりがない。
いつも同じことを描きながら、でもどこかが違っていたホン・サンス。彼が違うことを描き始めた。それはキム・ミニとの公私にわたる関係や、韓国のフェミニズム・ブームの勢いが影響しているのだろう。今までの全ての作品がこの作品のための習作とでも言いたくなるような、その省略と形式の洗練を武器に、これからどんどんすごい作品を撮ってくれる予感を抱かせてくれる傑作である。
*本稿は2021年5月28日に本サイトに掲載されたものである。
「逃げた女」
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:キム・ミニ/ソ・ヨンファ/ソン・ソンミ/キム・セビョク
2020年/77分/韓国
原題:The Woman Who Ran
12月13日(土)よりユーロスペースにてロードショー
*ホン・サンス監督のデビュー30周年を記念し、新作5本を5ヵ月連続で公開する「月刊ホン・サンス」が開催中。同時に開催されるのが旧作5本を上映する「別冊ホン・サンス」。その第2弾が「逃げた女」となる。
暉峻創三による「ホン・サンスはどこへ行く?」論
「ホン・サンスが撮った映画」論
「ホン・サンスが描く旅と街」論
40ページに及ぶ“ホン・サンスの世界”を掲載。
定価:2,420円(税込)
発行:A PEOPLE
ユーロスペース、Amazonほか一部書店にて発売中