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映画は、時間と空間によって成り立っている。「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」は、場所によって時間が導かれ、時間によって場所が導かれる感覚と構造を有している。だから、映画というメディアの根源的な部分に初めて触れたときのような感動がもたらされる。
だからこそ、監督チャン・リュルに問いかけたい。慶州という土地が、時間をめぐる物語を招き寄せたのか。それとも時間というものに向き合ったから慶州に降り立ったのか。まず、それが知りたかった。
「まず、場所が最初でした。そこから映画はスタートしました。ただ、なんの準備もなく、その場所に行きました。1995年に初めて慶州に行ったんですが、その場所で流れている時間は、北京とも違うし、またソウルとも違った時間の流れだと感じました。
1995年、私は中国から初めて韓国に行きました。祖父母が韓国の出身なので、私は三世となります。三世として韓国を訪れたので、当時は見るものすべてが不思議な感じがしました。ただ、慶州という場所には不思議というよりも、時間の迷路のような感覚がありました。その一方では居心地の良さもありました。
ソウルに最初に到着したときは知人の家に何日かいたんですね。その後で、知人のお兄さんふたりの家がある大邸(テグ)というところに行きました。そのとき、お兄さんたちが観光させてくれたんですね。大邸の近くにある観光地が慶州でした。映画の中に出てくる茶屋に行きました。そこには劇中と同じく春画があったんです。なぜ、茶屋に春画があるんだろう? そう思いました。それから7年後、再び訪れることになったんですが、この7年は映画の中の設定と同じです。私を慶州に案内してくれたお兄さんが危篤だと聞き、北京から大邸に行き、病院でお兄さんのお顔を見ました。その後、ソウルに戻る前に慶州に寄りました。あの茶屋に行きましたが、ご主人は変わっていて、春画もなくなっていた。
その知人とはイ・チャンドン監督です。当時はまだ監督ではなく、小説家でしたね。私を慶州に連れて行ってくれたお兄さんはふたりとも、残念ながらもう故人となりました。この映画にはイ・チャンドン監督の弟さんも出演しています。つまり、これはイ・チャンドン兄弟と関係のある映画と言えます」
まるで映画のような語りである。だが、そもそも、この現実のエピソードを物語の中軸に混入したのはなぜだったのだろう。
「その茶屋で実際に撮影をしました。お茶を飲む場所と、春画は本来ありえない組み合わせですよね。茶屋は人の心を静かにするところで、春画は人の血を沸き立たせるもの。なのに、その場所では妙に調和していた。その春画には「一杯飲んでから、やろう」という言葉がありました。それが妙なことに思えました。普通なら「すぐやりたい」ものでしょう。急いでやるのではなく、ひとまず止まってゆっくりやろう、ということですから。時間の余裕を感じたんですね。そのときに、茶屋という空間にも通じるものがあるんじゃないかと。時間が経っても、ずっと忘れられないでいたんです」
慶州への同行者は春画のことを憶えていなかったという。記憶とは不確かなものである。時間には一定のスピードがあるわけではなく、人にとって伸びたり縮んだりする。その不確かさが、この映画ではとても豊かなものとして変幻している。
この映画は白日夢に似ている。昼間みる夢ではなく、起きながらに体験する夢の時間。
「実は、このインタビューのために、つい2日前に『慶州』を観直したんです。私は映画を撮った後、ほとんど観直さないのですが、これは本当に自分が撮ったのだろうか? と思いました。それで、ひとつひとつ記憶を辿ってみた。まさに、長く壮大な白日夢を見ていたような感じがします。長い白日夢をみることができるような条件が揃っていた。慶州という空間。茶屋。そしてパク・ヘイルさんの顔があったから撮れたのだと思います」
この白日夢は終わらないのではないか。そうも思わせる映画はけれどもやはり終わる。どうすれば映画を終わらせられると考えていたのだろうか。
「最初はいまの終わり方を考えてはいませんでした。これは主人公の記憶をめぐる物語です。記憶は事実を土台にはしているものの、事実を超えるものでもある。ラストにある人物を再登場させることで、白日夢をみているような感覚になるのではないかと思いました」
昼は白日夢。だが、映画の中の時間が夜に移行すると、むしろ覚醒していく印象がある。普通なら、夜のほうがファンタジックになったりもするものなのに。この映画では昼が幻想的で、夜がリアルなのである。
この不思議な時間感覚は、いくつかの死が描かれているからでもある。ここで綴られる死はすべて主人公の伝聞であり、それが事実であるかどうかもあやふやである。それらの死は果たしてほんとうのことだったのかどうか。
そんなふうにもたらされる感覚は、中国の詩を彷彿とさせる。中国の詩からは、何年も何年も前に存在した人の「声」が聴こえるような情緒が生まれる。
チャン・リュルの映画文体には、そんなふうに軽々と時間を超える何かがある。
「昼は白日夢で、夜のほうがリアル。言われてみると、そんな気もしますね。普段考えたこともなかったのですが……理由を辿ってみると、昼のほうがぼおっとしてたり、他のことを考えていたりする。夜、お酒が入るといきなり現実に戻る気がします(笑)
私は中国の古典詩が好きです。現代詩も好きですが、私の情緒に何らかの変化をもたらせてくれたり、私が何か深く物事を考えているときに浮かんでくるのは、現代詩ではなく、古典詩なのです。中国の唐詩は文字数が決まっています。しっかりと文節も合わせて、形式にのっとって、作られていきます。その形式だけを見ると、自由とは真逆のような気がして。すごく何かに閉じ込められているような気がしますが、とても強いリズムを作り出すんですね。それが古典詩の魅力なのではないかと思います。形式の中に力強いリズムが作られていく。そのことによって自由がもたらされている気がします。
映画を撮りながら、ときどき俳優たちと古典の詩を読んでみたり、古典詩について話し合ってみたりもします。ひょっとしたら、それが映画の中のリズムになっているのかもしれません。
小津安二郎監督の映画を観ていると、唐詩を見ているような感覚になります。すごく厳格に形式を決めて撮影していますよね。撮影監督はさぞかし息苦しかったでしょう(笑)」
チャン・リュルの映画は一見、自由に映る。だが、自由をもたらすルールがあるのではないか。小津にも匹敵するほどの厳格な形式が。