Photo by : 星川洋助
11月23日から開催される「第20回 東京フィルメックス」。今年で20回目を迎える同映画祭プログラムディレクター・市山尚三から見たアジア映画の現在・過去・未来。
── 東京フィルメックスは今年で第20回を迎えます。日本におけるアジア映画のあり方を考えるとき、この映画祭の貢献は計り知れないものがあります。この20年を振り返っていただきつつ、アジア映画の動向をお話ししていただければ、と思います。
フィルメックスを始めたとき、どういう性格の映画祭にするか、話し合って、結局、アジア中心の映画祭にしたんです。コンペティションはアジアに限る。招待作品ではアジア以外のものもやる。そう決めたのはなんと言っても(開始した)2000年の時点で、単純にアジア映画が面白かったからですね。特に1990年代にイラン映画が(日本に)入ってくるようになって、いままでは未知の領域だったところから、素晴らしい作品が次々にやって来た。2000年はイラン映画が3本、コンペに入っていますね。
その頃は、東南アジアの映画をこんなに上映できるようになるとは思っていなかったですね。2000年には(タイの)アピチャッポン・ウィーラセタクンの「真昼の不思議な物体」を上映していますが、そのときはほとんど東南アジア映画はなかった。90年代に、東アジアやイランの映画がたくさん出てきたのと較べると、何人かの監督を除くと、ほとんど国際映画祭では東南アジアの映画は上映されていなかった。応募されたものを観ても、映画祭上映のレベルに達していないものがほとんどでした。ところが2000年以降にどんどん出てきたんですね。いちばん大きなことは2001、2002年くらいにデジタル化が進んだこと。2000年にはフィルムで撮っている人がほとんど。当時は「デジタル部門」を設けていました。2002年、アミール・ナデリの「マラソン」はデジタル・ベータで撮られていて、当初はフィルムにすると監督は言っていましたが、フィルメックスでの上映直前、「フィルムにするお金がない」と。急遽、デジタル・ベータで(会場の有楽町)朝日ホールで上映したら(クオリティ的に)全然問題なかった。カメラの精度も高くなり、上映プロジェクターの精度も上がっていた。その翌年からはデジタル作品も朝日ホールで上映することにしました。あれが分岐点でした。
デジタル化によって、いままで撮りたくても撮れなかった人たちが撮り始めた。たとえばフィリピンで、若い監督が娯楽映画を撮ることはまず無理。映画は高嶺の花だった。しかし若い人も撮るようになった。マレーシアもそう。2000年代の前半はそういう動きでしたね。このことによって世界の映画地図が変わった。これは一つの大きな変化でした。そして中国でも低予算での映画作りが始まった。90年代には16ミリフィルムで撮っていたアンダーグラウンドの人たちが、デジタルによってより簡単に撮れるようになった。この2つはすごく大きな変化だと思います。気がついたら、アジア映画がずっと面白くて、20年も続いているんです。裾野が広がれば、それだけ優れたものも生まれます。