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review

死霊魂

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相田冬二


8時間26分に接する、その<静けさ>の、なんというざわめき

たとえば、「苦い銭」や「ファンさん」のような、この監督にしては<短い>尺の作品が近年続いていたが、本作は彼の名を一躍轟かせた「鉄西区」に匹敵する上映時間を有していること。

あるいは、今回彼が向き合ったのは、「鳳鳴 中国の記憶」や「無言歌」でも取り上げた<反右派闘争>と<大飢饉>という中国近代史の闇であり、集大成にして総決算でもあるということ。

だが、そのようなことを記すことに、なんの意味があるのだろう。

1950年後半、中国共産党に対する批判を歓迎する進歩的な運動<百花斉放・百家争鳴>を真に受け、自由に発言した者たちは、毛沢東の気まぐれな政策転換により、国家には歯向かう<右派>と呼ばれ、再教育収容所に送られる粛清の憂き目に遭う。

建国からまだ10年にも満たない中華人民共和国は、さらに<大躍進>を目指すあまり、無理を押し通し、<大飢饉>を引き起こし、わずか3年で2000万から4500万人もの死者を出したと言われている。

ワン・ビンの「死霊魂」は、飢饉下の収容所で辛くも生き残ったサバイバーたちの証言を克明に記録した、全3部から成る総計506分のロングロングジャーニーである。

ドキュメンタリーは<資料>なのだから、そこから何かを学ばねばならないと考える生真面目な観客は、分厚いハードカバー上下巻でも紐解くような構えで、8時間26分に接し、何事かを<読破>したかのような達成感に酔いしれるのかもしれない。

だが、そのようなオーディエンスは、劇映画に相対するときも、事態の推移を<要約>し、物語を<解読>し、台詞を<精査>し、映像を<凝視>し、あらゆる細部を<監視>し、結局のところ、すべてを<情報化>することで<支配>しようとする<思考のファシズム>に陥っているのではないか。

そうした<お勉強好き>のまなざしを、この超大作をきっかけに、とりあえず棄て去ってみてはどうだろう。

芸術を<手中>におさめようとするのではなく、もっと無防備に、素手で映画にふれたほうが、生まれたての果実を味わい尽くすことができるかもしれない。

映っているのは、人間である。
それ以上でも、それ以下でもない。

この<コース>の<メインディッシュ>は、人間以外のなにものでもないのだから、ただ漠然と、ひたすら鷹揚に、ときには字幕すらも追いかけることをやめて、画面を眺めていると、わたしたちの固定観念に支配された<こころの焦点>は、いい意味でぼやけていく。

集中力を失うのではなく、無駄な緊張感が薄れ、もっともっと全体像がつかみやすくなる。

これを、<こころや思考のレッスン>だと思えば、この長尺もたじろぐ必要もない。 わたしたちは、この程度の時間を、飛行機の中で過ごすこともあるし、ベッドの中で横たえることだって全然珍しくはない。

どのような悲劇も、リラックスして臨めば、本質は、向こうのほうからやってくる。

とにかく、誰も彼もが堰を切ったように、しゃべりまくる。
無論、語り口はさまざまであり、絵に描いたような饒舌がカタログ風に羅列されていくわけではない。

無言もあれば、沈黙もある。
だが、その<静けさ>の、なんというざわめき!

ようやく、この世界に生まれ出た蝉が、全身全霊をかけて叫んでいるような<時雨のとき>がスクリーンを占拠する。

そして、その風情は、決して暗くはない。
語られていることは、暗黒でも、それを言語化(あるいは、ただ体現)している人間たちのフォルムには、微かな光さえ感じられるのである。

人間は、かくも「話し続ける機械」となりえるのか、という事実を前に、なんどか首を垂れたし、平伏すより他はなかった。

みな高齢で、最年長は92歳、最年少でも75歳。

老人たちが、おのれの存在証明を託すかのように、ひたすらに訴えまくる姿は、意外なほど悲痛ではない。

ある者は夫婦で証言リレーをし、
ある者は横たわりながら瞳で訴え、
ある者は絶叫・号泣し、
ある者は冷静沈着に述べ、
ある者は郷愁を噛みしめ、
ある者は憤慨の大波を裸で泳ぎ切る。

それだけ凄まじい出来事だったのだろう。

逆に言えば、体験そのものがいまもなお生々しく、彼らのなかに息づいているということでもある。

だが、それ以上に、人の記憶は雑多であり、それを語る術の可能性は、気が遠くなるほど無限なのだということが、問答無用の迫力で襲いかかってくる。

それが、轟音のような<ざわめき>として、響きわたっている。

そこに、言葉があると、観客は、その言葉の意味どおりに、話す人間のことも捉えようとするが、言葉と肉体を切り離して、生命そのものを見つめることができれば、違った真実に近づくこともできる。

タイトルは、いかようにも解釈することができるだろう。

たとえば、死者たちの霊と魂が、生者に取り憑いて、しゃべらせている、と捉えてもいい。

だが、
こうも思うのだ。

スクリーンに投映されているのは、実は死者たちであって、わたしたちはそれを生者だと思い込もうとしているだけなのではないかと。

もし、死者たちなのだとすれば、あの無尽蔵のポテンシャルも、持続する永遠のモチベーションも理解できる。

誤解を恐れず、はっきり形容しよう。

死者たちの語らい。
霊と魂のお茶会。
話さずにはいられないことが、ある。

もう一度、言う。

その光景は、決して暗くはない。

生き生きとしている。



「死霊魂」

監督・撮影:ワン・ビン
2018年製作/8時間26分/フランス・スイス
原題:死霊魂|英語題:DEAD SOULS

配給:ムヴィオラ
(C)LES FILMS D’ICI-CS PRODUCTIONS-ARTE FRANCE CINÉMA-ADOK FILMS-WANG BING 2018

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