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review

黒衣人
火の娘たち

text
相田冬二


不断の音楽の力で分かち難く繋がっている
ワン・ビンとペドロ・コスタ

ワン・ビンとペドロ・コスタという豪華な二本立てが第24回東京フィルメックスのプログラムで実現した。

ワン・ビンの中編「黒衣人」(60分)とペドロ・コスタの短編「火の娘たち」(8分)は共に、2023年のカンヌ国際映画祭で特別招待作品として初上映されている。

そして「火の娘たち」はフィルメックスに先立つ山形国際ドキュメンタリー映画祭2023でお披露目されている。その際はコスタの希望で、ゴダールの短編「言葉の力」(1988年/25分)が伴映された。

後半では、ゴダール+コスタの組み合わせも踏まえて、ワン・ビン+コスタのカップリングを振り返ってみたい。

「黒衣人」は、全裸の老人の歩行に追随する映像から始まる。ゆったりしているが、悠然としているとも言える。高齢者だから、ではなく、その速度からはしっかりとした踏みしめが感じられる。

そこは、古い劇場だ。劇場の背景に横たわる歴史を感じるやいなや、老人が舞台に上がる。そこまでは流れるようなスピードとテクスチャの映像で、影の深いスポットライトとも相まって、これがワン・ビン作品とは俄かには信じがたい。

そこから彼のパフォーマンスが始まる。全裸ということもあり、観客は舞踏的な側面にフォーカスするだろう。即興的であり発作的でもある舞台だが、落ち着き払った老人には威厳があり、踊り、歌い、ピアノを弾く佇まい全ては統合されているようにも感じられる。

舞台に呑み込まれることのない老人の存在感は、舞台を支配しており、その揺るぎのない重量が、この歴史ある劇場と見事に溶け合っていることに私たちは気づく。そう、老人の歴史と劇場の歴史とが、互いに対等なまま向き合っている風格を知覚するのだ。

この時点では彼が何者か、理解していない。舞踏家なのか、俳優なのか、歌手なのか、それともピアニストか。そのいずれでもないことを私たちはうっすら予感している。

この「うっすら」に導くワン・ビンの演出は的確だ。

やがてインタビューパートが始まる。唐突に、とも言えるし、周到に、とも言える。インタビューと言うより、問わず語りのモノローグである。

本作には、彼以外の人間は一切登場しない。姿も声も、彼だけ。文字通り、完全な一人舞台だ。彼の語りから、彼が音楽家、それも作曲家であることが判明していく。生い立ちやキャリアの出発点について述べてたはずの彼は、いつしか慟哭している。

中国共産党に弾圧された屈辱が、涙ではなく怒りを込めて発せられる。気迫は圧倒的だ。たとえば「死霊魂」に登場した人々が、忌まわしい過去を語りながらも、一貫して憤怒の生命力に満ちていたことに通ずる。

そして、決定的なことが起きる。音楽は流れていた。おそらくは彼が作曲した交響曲だろう。ある時、彼の怒りの語りにぶつけるように音楽が鳴り響く。

社会に対するあるアンチテーゼとして作曲していたことは語られていたから、彼が創作した音楽もまた怒りによって形成されていることは理解していたが、ワン・ビンの映画の音響はそうした理屈のレヴェルを著しく逸脱し、ほとんど苛烈なノイズとして襲いかかる。

今まさに語り下ろしている真っ最中の彼の言葉が聴こえなくなるほどの大音量で、彼自身の音楽が突きつけられる。彼は話している。だが、その声を遮るように、音楽が上回るのだ。

耳をつんざくような怒り。怒りそのものと化した音楽。いや、石礫のような音。言葉にも、映像にも頼らない音響映画。

咆哮という概念すら超えた境地に、ワン・ビンの並々ならぬ想いを知る。彼の名は王西麟(ワン・シーリン)。中国映画「最後の冬」(1986年)など映画音楽も手がけているが、反骨のクラシック作曲家である。

その後、再び、パフォーマンスが始まり、エピローグのように置かれて、幕。劇的だが、大仰ではなく、ひたむき。

たった一人の人間だけを被写体にしているが、彼の人生の歴史だけでなく、彼に苦境をもたらした中国現代史、彼が舞台に立った劇場の歴史、そして映画を司ってきた音響×映像(ゴダールの言葉で言えばソニマージュ)の歴史など、あらゆる歴史が反響する。

ペドロ・コスタの「火の娘たち」は、シネマスコープ画面を三分割した、かつて見たことがないほど壮大なパノラマだ。

三分割画面それぞれには別の女性がいて、それぞれの苦悩を歌う。噴火する火山のすぐ近くで生きることの苦難が、それぞれの言葉で輪唱されていく。

前例のないハーモニー。それぞれ時空は独立しているのに、苦しみというネガティヴなファクターで強固に結びつき、特異な迫力で、観る者にアタックしてくる。

ミュージカルでも、MVでもない、新たな映像言語による問いかけだから、コスタが山形での上映時に、ゴダールの「言葉の力」のパワーと共にあろうとしたことも理解できる。

事実、ゴダール上映後の「火の娘たち」は、目に見えぬコラージュと魂の言霊が交錯する稀有な体験と化した。

ワン・ビンの「黒衣人」とのペアリングは、不断の音楽の力で分かち難く繋がっている。

王西麟の深層の絶叫の余韻が、「火の娘たち」の3人の女性の悲しみの三重エコーに重なり合う。

逆に言えば、コスタの作品はわずか8分でありながら、恐ろしいほどしぶとく、太々しく、どんな作品が来ても迎えられるだけの懐がある。

ゴダールにも、コスタにも、ドキュメンタリーの要素がある。その有り様は、ワン・ビンのそれとはあまりにも違うが、違うからこそ、共に在ることもできるのだ。

映画が、現実に対峙するメディアであり続ける限りにおいて、映画作家もまた、フィクションとしてのドキュメンタリー、ドキュメンタリーとしてのフィクションを、自覚的に行き来する。

「黒衣人」も「火の娘たち」も、意欲と確信に溢れた作品であるからこそ、映画と映画のマリアージュの現在形と新展開を見せてくれていた。


「黒衣人」
監督:ワン・ビン
2023年/60分/フランス・アメリカ・イギリス合作
原題:Man in Black
第24回東京フィルメックス にて上映

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「火の娘たち」
監督:ペドロ・コスタ
2023年製作/8分/ポルトガル
原題:As Filhas Do Fogo
第24回東京フィルメックス にて上映


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