映画館が全国的な休業状態から日常へのとりあえずの歩みを始めて間もなく、「パラサイト 半地下の家族」の「モノクロVer.」(以下、モノクロ版と表記)が各地のスクリーンに登場した(追って「IMAX Ver.」も)。昨年のカンヌでパルムドール(最高賞)を手中にしたのを皮切りに、世界スケールでの大ヒット、そして米アカデミー賞での最優秀作品賞受賞に至るまで、評価、興行両面で破格の成功を受けて実現した"派生商品公開"ではある(ただ、モノクロの上映素材そのものは、パルムドールの快挙以前に作られていた)。
けれど、いざスクリーンでこのモノクロ版を見ると、多くの人が思うだろう。もしかして、監督ポン・ジュノの頭のなかに最初に宿された原型的な「パラサイト」の姿は、モノクロだったのかもしれない、と。いざ、これを見てしまうと、むしろこの映画がカラーになることの方が想像し難く感じてしまうほどの、完璧な白黒世界だ。
そもそもポン・ジュノという監督は、100年超にわたって先人たちが積み上げてきた映画史の上に、自分独自の新しい映画表現が創出できるとはまったく信じていない監督である。そしてこの、先人たちの仕事への類まれな敬虔さがあるからこそ、今日の映画界で最高の監督たり得た。映画の古典が達成した美学的成果を仔細に研究して今の時代にアクチュアルに変奏し、再活用するのが、映画作家ポンの基本的な姿勢である。
人々のコミュニケーションの最終手段として頼りにされるのは、今や一般人からは忘れ去られた存在たるモールス信号であること。人を脅したり殺傷する武器として活用されるのは、弓矢とか石ころとか包丁といった原始的なものばかりであること……。新技術の発明や導入より、古い技術や道具の再活用によって今の時代を生き延びようとする「パラサイト」の登場人物たちの姿勢は、そのまま、映画表現者ポン・ジュノの姿勢の生き写しのように見える。
だから「パラサイト」がモノクロになることには、まず何の違和感もない。それに加えて、カラー版の色彩設計が原色を鮮やかに対置しようとするものではなく、むしろ全体のトーンのなかで一つひとつの色に過度な存在感を際立たせまいとするものであったことも、モノクロ版の成立を容易にした。その日本公開を追うように、2週間後、同じく主人公一家が「半地下」ともいえる洞窟住居で育ち、水の存在がドラマの展開に一定の動機を与えている点でも奇妙な共通性を持つ「ペイン・アンド・グローリー」が封切られたが、このペドロ・アルモドバル作品にはモノクロ版の成立は想像しがたい。室内の色彩設計、衣装の色彩設計はポン・ジュノとは対極的な美学で統御されており、その一つひとつの色が白黒の濃淡に還元されることは、かなりのところ作品の根本的な美に影響を与えるからだ。
こうした色彩設計の面を別にしても、「パラサイト」の原型イメージはモノクロだったのではないかと推察したくなる要素がある。映画がモノクロだった時代に創作活動を開始した二人の監督の作品群に、本作はとりわけ近親性を持っているからだ。一人はアルフレッド・ヒッチコック、そしてもう一人は韓国のキム・ギヨンである。二人ともモノクロとカラーの時代を股にかけて活躍した監督だが(ちなみにキム・ギヨンは、1960年代中盤までモノクロで撮っていた)、共にモノクロ時代に既に多くの名作を生みだし、名声を確立した。
二人の監督に共通するのは、映画を水平ではなく、垂直、上下の構造のもとに構築する意識が非常に強かったことだ。またドラマの決定的に重要な局面では、しばしば階段が舞台装置として活用された。「レベッカ」「断崖」「海外特派員」「汚名」「舞台恐怖症」「サイコ」等、白黒時代だけをとっても、階段を舞台に上下方向の人物の移動、転落を伴いながら多くの名シーンを撮ってきたヒッチコック。かたやキム・ギヨンは、その出世作「下女」の階段シーンが特に有名だ。彼はこのネタを、その後も幾度も直接的、間接的にリメイクした。
ポン・ジュノもまた、「パラサイト」を徹底した上下方向のドラマとして構築した。半地下に住む主人公一家は、社会階級のみならず物理的な標高上も最下層に生活する存在として描かれている。他方、彼らが「寄生」する先のブルジョア一家は、坂や階段を何度も登った果てにある高所に住んでいる。その高所の広大な邸宅のなかでも、人々は水平に移動する以上にしばしば階段の上り下りを迫られた。
邸宅は今、ブルジョア一家のものには違いないが、実のところその家の主のように住んできたのは家政婦だった、という描写も注目される。キム・ギヨンの「下女」(即ち家政婦のこと)でも、家政婦のヒロインが主人一家の家に住み込みで働いている内に、いつの間にか一家の主のような存在になってゆき、その権力関係に異変が生じてくるからだ。「パラサイト」は、人物設定の骨格でも、「下女」の変奏と見られる部分がある。
ところで「パラサイト」モノクロ版は、映画冒頭に現れる会社ロゴマークまで白黒で出てくるなど、ビジュアル面ではヒッチコックやキム・ギヨンのモノクロ時代と同じ時期に作られた作品と見紛うほど、周到なモノクロ化が図られている。ただ、それでもこれを本当にモノクロ時代に作られたのだと思う人は誰一人いないだろう。その理由は、音響デザインが完全に現代のものだから。単にモノラルがステレオになった等の技術的な進歩を言っているのではない。一つの場面に、登場人物の発する台詞や物音だけでなく、他にどんな音響をどんな音量比率で入れていくか。そんな音響設計の面でも、映画はモノクロ時代以降、格段の進展を見せた。そしてこの部分に関して、ポン・ジュノは、モノクロ化に際しても徹底して現代的であることを選んでいる。面白いのは、こと音響に関する限り、高地に立つ邸宅が舞台となっている時よりも半地下の貧しい家が舞台となっている時の方が、はるかにゴージャスで重厚な音響デザインがされていることだ。街の雑音から雨をはじめとする水の音まで、印象に残るのはたいていが半地下の家に主人公らがいる時に聞こえてきた音である。見栄えは貧しい生活環境に見えても、そこにしかない豊かさもあるのだ。そうポン・ジュノが言わんとしていたと考えるのは、少々深読みのしすぎかもしれないが……。
Written by : 暉峻創三
「パラサイト 半地下の家族」モノクロVer.
監督:ポン・ジュノ
出演:ソン・ガンホ/イ・ソンギュン/チョ・ヨジョン/チェ・ウシク
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TOHOシネマズ 日比谷ほかにて公開中
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