2時間18分。と聞くと、新人監督らしい勇み足、もしくは、思いの丈を詰め込みすぎ、との先入観を抱く映画好きもいるかもしれない。
つまり、長すぎるのではないかと。まったく長くはない。かといって、あっという間に過ぎるわけでもない。
透明だが、濃密。「はちどりタイム」と呼ぶより他はない、そのオリジナルな時間感覚がまずはキム・ボラ監督の才能を証明している。
1994年、ひとりの中学生少女の体験を、あらゆる角度から捉える。母、父、姉、兄、同級生、ボーイフレンド、後輩、そして、塾の女性教師。少なくともこの8人に関しては、ほぼ等価の割合で描かれていることに驚嘆する。連続ドラマなみの情報量が、わずか138分におさまっている。それでいて、駆け足にも、ダイジェストにも陥ることなく、蜜のように深い味わいが持続する。この卓越した合理主義の発明は、無論、冷徹な視点が支えている。
重要な点は、これがエピソードの羅列ではなく、すべて関係性の提示になっていることだ。つまり、主人公と8人は、すべて個と個として、対等な向き合い方をしている。他のキャラクターたちは決して、少女の世界を描くためのツールではない。ひとりひとりを人間として尊重しながら、豊潤なままで、まったく冗漫にならない。神業と言ってよい。
8人は、一見、少女が出逢う世界のシンボルに思える。だが、違う。凡百の社会派映画が陥る凡庸な説教を、キム・ボラは決然と無視する。そこでは、個的な痛みと個的な痛みとが遭遇し、衝突し、邂逅する。だが、溶け合うわけではない。それぞれの痛みは痛みとして、残り続ける。残響が、残り香が、染みのように、この地の痕跡となる。その潔さ。
では、キム・ボラは、痛みたちの交錯をどのように画面に浸透させているのか。
彼女が選んだ手法はきわめて簡潔だ。
だれががだれかを見るとき、その見つめられた者は、見つめた側の視線に気づかない。一方、今度は、気づかなかった側の人間が、見つめた側にまなざしを送ったとき、その瞳は感知されない。想いがすれ違うことを、丹念に積み重ねることで、その痛みたちがやわらいでいることを、わたしたちは見い出すだろう。
なぜなら、だれかの視線に気づくことができなかったことを、だれもが(知らず知らずのうちに)経験しているからである。つまり、日常レヴェルの、粒子のような痛みが、ここでは観察されている。この微細な痛みの集積が、少女の、家族の、ソウルの、韓国の大きな痛みにまで波及していく。ミクロの凝視と、マクロの俯瞰が、当然のように同居している映画的必然。
だからこそ、視線と視線とが交わった、わずかな瞬間、驚くほどの多幸感が舞い降りる。なにか問題が解決されるわけではない。しかし、まなざしとまなざしとが重なりあうことによって、それまでのすれ違いのすべてを抱擁するかのような時間が訪れる。これが「はちどりタイム」である。
それを少女の体内時間などと呼ぶべきではない。ここに刻印されているのは、生理的な営みではなく、紛れもなく外部からの客観的な視座だからだ。
「はちどりタイム」は、同時に、次のような普遍も視界におさめる。
ひとは、肝心なときほど、なにも言わない。慰めのことばなど要らない。これ見よがしの表情も要らない。ただ、黙っていれば、それでよいのだということ。
キム・ボラはやさしい。決定的にやさしい。世界を救うからやさしいのではない。世界をただ見つめているだけだからやさしいのである。
Written by : 相田冬二
「はちどり」
監督・脚本:キム・ボラ
出演:パク・ジフ/キム・セビョク/イ・スンヨン/チョン・インギ
©2018 EPIPHANY FILMS. All Rights Reserved.
ユーロスペースにて公開中 全国順次公開
[関連記事]
キム・ボラが語る「はちどり」の世界/第1回 1994年の韓国
キム・ボラが語る「はちどり」の世界/第2回 その作家性と深層
キム・ボラが語る「はちどり」の世界/第3回 韓国・独立映画の可能性
キム・ボラが語る「はちどり」の世界/第4回 世界の中の韓国映画
【CULTURE/MOVIE】キム・ボラは、やさしい“はちどりタイム”という透明で濃密な時間
【CULTURE/MOVIE】「はちどり」強い目の光をもつ14歳の日常