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CULTURE / MOVIE
「ホン・サンス、イ・チャンドン、そして、チャン・リュル」

去る5月18日、東京・南新宿:BC WORLDにて、映画「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」公開を記念し、同作で初めて本格的に日本で紹介されることになるチャン・リュル監督を、韓国が誇るホン・サンス監督とイ・チャンドン監督と並列で語った。
 今回はいつもの相田冬二と小林淳一(A PEOPLE編集長)に加え、アジア映画、とりわけ韓国映画に造詣の深い映画評論家、佐藤結さんをスペシャルゲストにお迎えし、多角的に論じるトークイベントを2時間にわたって展開。3人の映画作家を同時に取り上げるという初めての試み。相田とはこの日が初顔合わせとなる佐藤さんの精緻にしてふくよかな、示唆に富んだ指摘の数々もあり、これまでのトークにはなかった成果が得られたように思う。
 最後の質疑応答タイムでは、ホン・サンス、イ・チャンドン、そしてチャン・リュルの作品を愛し、既に「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」は何度も繰り返し観ているという若い女性から「私はこの監督たちが好きで観てきましたが、なぜ自分が好きなのか、これまで言葉にできませんでした。それを今日、こんなふうに言葉にしてくださって、ありがとうございます」というご感想が。その女性は涙ぐんでさえいた。
 このような反応も初めてのことであり、まさに初めて尽くしのひとときだったが、この日に得られた糧を基に、自分なりに再考してみようと思う。

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「それから」

奇しくもその約1週間後、カンヌ国際映画祭のパルム・ドール賞が発表された。世界で最も権威のあるこの映画祭の最高賞に輝いたのはポン・ジュノ監督の「パラサイト」(原題)だった。言うまでもなくポン・ジュノもまた現代韓国映画界を代表する最重要作家のひとり。ただポン・ジュノは近年、多国籍にまたがる大作「スノーピアサー」やネットフリックス作品「オクジャ」などグローバルな活動が続いており、彼が純粋な韓国映画を手がけるのは「母なる証明」以来、実に10年ぶりのことだった。
 この言葉が適切かどうかはわからないが、ポン・ジュノが「不在」だった韓国映画の10年間を、純然たる映画作家として支えていたのは、この3人(ホン・サンス、イ・チャンドン、チャン・リュル)だったのではないか。もちろん他にも刮目すべき韓国人監督はいる。だが、少なくともこの3作家がそれぞれのやり方で、激動の2010年代を乗り切ったことは、これから先の映画史において大きな出来事として記録されていくはずである。

かつて、いわばボヘミアン的に世界や他者の恋愛の愚かしさを嘲笑的に綴る「優れた観察者」だったホン・サンスは、女優キム・ミニとの出逢いと邂逅を経て、自己の内面を見つめる「愚直な探求者」となった。それはシリアスであることをギリギリのところでどうにか拒んできた男が、シリアスであることを恥じずに受け入れる葛藤と揺らぎと覚悟であったはずである。その先に「それから」という名作の誕生があった。
 ホン・サンスはこの10年間、休むことなく映画を撮り続けた。その勢いは加速する一方で、もはや1年に3本ということも珍しくない。一方、もともと寡作なイ・チャンドンは「ポエトリー アグネスの詩」から8年のときを経て、ようやく最新作「バーニング 劇場版」を世に放った。そのあいだ、優れた女性監督たちのデビュー作を完成に導き、プロデューサーとして重要な仕事を成し遂げてきたイ・チャンドンだが、この10年でわずか2本しか監督作がないのだから、もはや孤高の作家と言っていい。「バーニング」は待たされた甲斐のある、衝撃的かつ現代的な一作だった。
 寡作だからなのか、イ・チャンドンの姿勢は一貫している。佐藤結は「人間を見つめることが、彼にとってはごく自然に社会を見つめることにつながっている。イ・チャンドンはとにかく『見る』監督なのです」と説く。この日、相田が「バーニング」について語ったことは「そのまま『オアシス』の評になります」と佐藤さんは語った。相田はイ・チャンドンの「オアシス」を未見だったが、佐藤結のこの指摘は、イ・チャンドンという監督の不変ぶりを証明するだろう。
 あらゆることに対して、いい意味で無責任だったかもしれない高等遊民ホン・サンスが、言ってみれば「生きること」に責任を持つようになったのに対して、イ・チャンドンは変わることなく、人間に、社会に、世界に責任を持ち続けている。
 だが、非シリアスな方向からシリアスな方向に向かうことや、シリアスであり続けることだけが、作家のあるべき姿勢ではない。

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「バーニング 劇場版」

かつて、怒りに満ちたシリアスな映画を撮り上げていたチャン・リュルは、「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」を前後して、シリアスではない「あわい」の方向に舵を切った。佐藤結によれば、「人生環境に大きな変化があったから」だという。
 中国人であるチャン・リュルにとって韓国は異郷である。彼が地名をタイトルにした映画を手がけているのはこのことと無縁ではない。佐藤さんはその視点を「異邦人」と表現する。
 大きな意味で旅をモチーフとした近作は、その「異邦人」感覚が顕著だ。異邦人であることで、怒りとは別種の、どこにも属さない情緒と感情の場所から、「生きること」を照射している。
 一見、呑気にも思える、肩に力の入らないそのまなざしはけれども、かつてのホン・サンスのようなボヘミアン的な自由さとは異なっている。怒りを通過した果てにある、特殊な諦観が、異邦人ならではの自由さを獲得している。

芸術家は自由でなければならない。シリアスであろうと、非シリアスであろうと、それは何ら変わらない。
 ホン・サンスはかつても自由だったが、いまは別種の自由を手にしている。世間から私生活をどんなに糾弾されようとも、己の映画を、もっと言えば刻一刻と変わりゆく己の作品を作り続けること。その自由は、かつてとは較べようがない領域にある。
イ・チャンドンもまた自由だ。もはや世界的権威と呼んでもいい文学者、村上春樹の短編を原作にしながらも、その小説世界に追従する「ありきたりな愛」を表明するのではなく、村上春樹のキャリアすべてを呑み込み、あくまでも「現代の映画」として提示する、屈強な真摯さがあった。人間を、社会を、世界を掴み取るためには一切の躊躇も一切の妥協もしない。これもまた、芸術家の自由である。
チャン・リュルがいま手にしている自由は、ホン・サンスともイ・チャンドンとも異なる「新たなる自由」である。それがどんな自由なのか、6月22日のトークイベントで、佐藤結と語り合いたいと思う。
自由は連鎖し、遍在する。ホン・サンスのように実人生が辿り着く自由もあれば、イ・チャンドンのように生来の人間性が掴み取る自由もある。だが、自由の在り方はそれだけではない。チャン・リュルのような自由も、映画には存在しうるのだということ。
「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」をご覧になった方々を対象に佐藤結が、相田冬二が何を語るのか。わたし自身、観客のひとりとして大いに期待している。

Written by:相田冬二

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「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」


「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」
監督:チャン・リュル
出演:パク・ヘイル/シン・ミナ

6月8日(土)よりユーロスペース(東京)、横浜シネマリン(神奈川)、出町座(京都)にて公開にて公開
公式サイト


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